このブログは、ほぼ私の備忘録のようなもので、基本的には
インスタグラムをミラーリングしつつ、ゆるく過ごしている時間を
(特にバイクとラーメンや料理、たまに旅を)ブログとして残しているのですが。
今回は少しだけ、私にとって大事な思い出を残しておきたいと思います。
先月末、2016/9/30の未明、大学時代の写真部の後輩が
43歳の若さにも関わらずガンで亡くなりました。
FBを通して、別の後輩から訃報の連絡をいただき知ったのですが、
彼がガンを患っていたことさえも知らず、ただただ驚くばかりでした。
はたして学生時代に仲が良かったのかと言われれば、
むしろちょっとした緊張感を持った間柄だったかもしれません。
それは写真という芸術に向き合い、感じ方や表現のあり方に
違いによるものからかもしれませんし、お互いに青臭い大学生の
エゴによるものかもしれません。
彼はクールで、ちょっと頭で捉えすぎでは無いかと思えるくらいの
立ち位置を求めているのですが、内面はむしろ熱い気持ちを持ち
そして優しい心遣いの出来る男でした。
学部が違い、キャンパスも違ったために一緒に過ごしていた
時間は限られ、たまに部室でだべっているほかは、
定期展覧会や他大学との合同展覧会で活動していました。
始めは彼に、「(写真に)格好つけてないで、もっと気持ちを出せよ」等と
エラソーに言っていた覚えがあるのですが、何時の頃からか彼が
内面に持っている、優しく見つめているような視線の写真を見せられ、
悔しくも感動していた覚えがあります。
彼は大学を卒業後、河北新報に写真部員として職を得て、
「報道写真なんてあんな優しい奴にできるのかいな?」などの
周りの心配を他所に、写真に記事にと活躍の場を広げていました。
東日本大震災の時は、あの南三陸の防災庁舎で取材しつつ
(骨組みだけ残し、津波で破壊され多くの職員が亡くなったあの施設です)
避難のため子供を保育園に迎えに行ったことで、九死に一生を得たと
後々聞いて、何はともあれ無事で良かったと胸を撫で下ろしたものでした。
その後も南三陸に留まり、被災者(当人もそうですが)の傍に寄り添い
復興までを伝え続けたと聞いています。
仙台在住の後輩からは、「新聞の写真を見ると、すぐ判りましたよ」と
言っていましたので、やはり彼の視線は昔と変わらなかったのでしょう。
年賀状のやり取りでは、窺い知ることが出来なかったのですが、
30代の半ば、結婚後すぐの頃に最初の発病があったとの事、
その後、手術で取り除いたものの数年後に再発、転移と
決して長くはない時間を過ごし、あっという間に旅立ってしまいました。
葬式に参列し、棺に眠る痩せこけた顔を見ても、どうにも
心の中に落ち着く場所を見つけられません。
このエントリーも、最後の別れを確認するには程遠いようです。
もっともこんな事を書いていても、彼から「そっちこそまた、格好つけて」と
冷たく笑われるかもしれませんが。
河北新報写真部・渡邉龍君、いや、私にとっては大学写真部の
龍君、貴方にとって私はどんな先輩でしたか?
決して良い先輩ではなかったとは自覚してますが、君にとって
何らかの影響を与えることは出来ていたのでしょうか。
君の写真と君の死は、私に何らかの影響を与え続けることでしょうね。
・・・悔しい事ながら。
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